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これだけは押さえておきたい!チュニジアの歴史をザッと解説

チュニジアは歴史に根付いた土地が多く、自国の文化に誇りを持つチュニジア人も沢山いるので遠いアジアの国からきた日本人が知っているともっと仲良くなれるかも?!ここでは古代から今に至るまでのチュニジアの歴史を紹介します。

ザッとか言っておきながら結構長いので、おヒマな時にどうぞ。

先史時代

ヴェゼール渓谷の先史時代洞窟壁画群

先史時代、北アフリカにはベルベル人と呼ばれる民族が広く分布していました。
現在のチュニジア共和国の内陸部で石器文化を築き、各地へと散らばり文明を広めていったと言われています。紀元前4,000年ごろにサハラが砂漠化し、今のサハラ砂漠が完成しました。

カルタゴの興亡

チュニジアの首都チュニスに残されたカルタゴ遺跡

先史時代以降、内陸部にはベルベル人が居住するようになっていたましたが、沿岸部には地中海交易で活躍していたフェニキア人が、交易拠点としてこの地に移住し、紀元前814年頃にカルタゴ市が建設されました。

カルタゴ帝国は商業を拡大する中で地中海やアフリカ沿岸に探検や入植市建設を行い北アフリカやシチリア島、サルデーニャ島、コルシカ島、バレアレス諸島、イベリア半島東部に植民市を築いて勢力下に置きました。

ちなみに、チュニジア人とベルベル人を一緒くたにしているとかなり怒られます。自国の文化に誇りを持つからこその反応ですので、それぞれの文化を尊重してあげてくださいね!

カルタゴ・ギリシャ・ローマの領土

紀元前6世紀からシチリア島を巡って在地のギリシャ人植民市と対立し、三度に渡るシケリア戦争が繰り広げられました。さらに、紀元前264年からイタリア半島で勢力を伸ばしたローマ共和国とも三度に渡るポエニ戦争を経験しています。

第一次ポエニ戦争では敗戦によってコルシカとサルデーニャを失い、第二次ポエニ戦争ではハンニバル・バルカに率いられたカルタゴ軍がアルプス山脈を越えてイタリア半島に侵入し、ローマを存亡の危機に追いやりましたが、ローマが態勢を立て直すとスキピオ・アフリカヌスの率いるローマ軍がアフリカに上陸し、ザマの戦いでハンニバルを破ってカルタゴは敗北しました。

ポエニ戦争とハンニバル・バルカ

敗北したカルタゴはアフリカ以外の全ての領土を失い、多額の賠償金を課せられましたが、驚異的な速度で復興し、賠償金を完済しました。カルタゴの復活を恐れたローマは第三次ポエニ戦争でカルタゴを征服し、紀元前146年にカルタゴは滅亡したのでした。

ローマ帝国属州アフリカ

エル・ジェムの円形闘技場

カルタゴが滅亡すると、領土は全てローマのアフリカ属州に組み込まれた。ローマ共和国の統治下でカルタゴ市は再建され、北アフリカの中心都市として栄えた。ローマ風の建築物が建てられるなどローマ化が進み、キリスト教も普及していった。

ローマ帝国の東西分裂後、チュニジアは西ローマ帝国の統治下に置かれた。5世紀になるとゲルマン系のヴァンダル人が侵入し、ヴァンダル王国が建国された。ヴァンダル王国は一時西地中海の制海権をおさえて繁栄したものの、534年に東ローマ帝国のユスティニアヌス帝によって滅ぼされ、これ以降は東ローマ帝国に組み込まれました。

7世紀からイスラーム勢力のウマイヤ朝がチュニジアにまでジハードを敢行し、アラブ人の侵入が進んだ。640年以来カルタゴはアラブ艦隊の攻撃を受けるようになり、670年にはアラブ人支配地域でケロアンが建設された。東ローマ帝国とベルベル人は共同でアラブ人と戦い、683年に襲撃してきたアラブ軍を撃退しました。この敗退によってケロアンはベルベル人の支配下に置かれましたが、688年にアラブ軍がケロアンを奪回し、その後ハッサーン・イブン・ヌマーン(英語版)の遠征によって692年にカルタゴはウマイヤ朝によって攻略されます。697年に東ローマ帝国がカルタゴを再攻略したが、ハッサーン率いるウマイヤ朝軍にベルベル人を率いた女王カーヒナと東ローマ帝国の連合軍は敗れ、698年にアラビア人がカルタゴを再奪取し、カーヒナは戦死しました。こうして紀元前から続いたローマ人のアフリカ支配は終焉し、ベルベル人はアラブの支配下へ置かれることになります。

チュニジアのイスラム化

イスラム帝国による支配の経緯
  • アグラブ朝

ケロアンを都にアッバース朝の宗主権を認めつつ自立。アグラブ朝は艦隊を整備して地中海に進出し、シチリア島、イタリア半島、フランス南部などに海上から遠征軍を送り、地中海を制圧し、中世ヨーロッパを圧迫しました。特にシチリア島には827年に攻撃を開始し、878年にはシラクサを占領し、11世紀後半のノルマンの進出までのイスラム支配時代の基礎を築きました。

   

  • ファーティマ朝

10世紀初頭にシーア派を奉する信仰運動がこの地に起こり、ムハンマドの娘ファーティマの血統をひくと自称するファーティマ朝が起こって、909年にアグラブ朝を倒しました。ファーティマ朝は急速に北アフリカを支配しましたが、まもなく東方のエジプトに入り、カイロを建設して本拠をエジプトに移し、シリアにも進出するようになりました。

   

  • ズィール朝

ファーティマ朝が去ったあとのチュニジアにはベルベル人の地方政権のズィール朝が成立し、当初はファーティマ朝の宗主権を認め従っていましたが、次第に独立の姿勢を強め、アッバース朝カリフに従うようになりました。

そのためカイロのファーティマ朝はアラブ系遊牧民を使ってズィール朝を攻撃させ、ケロアンが破壊された結果、アラブ系遊牧民の移住が進み、ベルベル人との同化が進んだ。ズィール朝は1070年に分裂しアルジェリアにハンマード朝が分立したましたが、そのような混乱のさなか、南イタリア・シチリア島にはノルマン人の侵出が相次ぎ、1072年にシチリア島を奪われ、さらにチュニジア本土もノルマン人の侵攻を受けました。

   

  • ムワッヒド朝

ズィール朝の分裂やノルマン人の侵出という混乱状態が続くうちに、西方のモロッコに起こったベルベル人のムワッヒド朝がその勢力を東方に伸ばしてきて、ノルマン人を撃退すると共に、ハンマード朝・ズィール朝を滅ぼし、1152年からはチュニジアもその支配を受けることになりました。

   

  • ハフス朝

ムワッヒド朝が衰退すると北アフリカ各地に後継国家が分立したが、チュニジアには1228年にムワッヒド朝のチュニス総督がハフス朝(1228~1574)として自立した。1270年にはフランス王ルイ9世の率いる第7回十字軍がチュニスに来襲したが、ルイ9世はこの地でチフスに罹って死んだため不成功に終わりました。

  

  • フサイン朝

1705年にムラード朝が滅亡すると、同年フサイン朝が成立し、フランス統治時代を挟んで252年間に亘り統治を行い、1824年に即位したフサイン2世は、1831年にチュニジアの国旗を制定しました。

19世紀前半より東から1835年に当地で自立していたカラマンリー朝リビアを再征服したオスマン帝国の圧力が強まり、西からは1847年にアルジェリアを征服したフランスの圧力が強まる中で、チュニジアは独立を維持するために、エジプトのムハンマド・アリー改革やオスマン帝国のタンジマートに倣った富国強兵政策などの近代化政策を図りました。

1837年に即位したアフマド・ベイは中央集権化を進めると共に、税制改革、徴兵制の導入、服装のヨーロッパ化、士官学校の建設、ザイトゥーナ大学(737年創設)の改革、常備軍の新設、国立工場の建設、フランス人軍事顧問団の受け入れなど富国強兵政策を実現しました。また、1846年に奴隷輸入の禁止も実現され、フランスよりも早かった奴隷制廃止の実現は、フランスの奴隷制廃止論者であり、後に第二共和政下で奴隷制廃止を実現したヴィクトル・シュルシェールに大きな影響を与えました。

サヴォイア朝イタリア王国もチュニジアを狙っており、1878年のベルリン会議では、イタリアとフランスがチュニジアの鉄道敷設権を巡って対立しましたが、最終的にイタリアが折れ、西欧列強によってチュニジアにおけるフランスの優先権が与えられました。こうした状況下でフランスによるチュニジア侵攻が行われ、1881年のバルドー条約、1883年のマルサ協定でフランスの保護領となったのです。

フランス保護領時代

チュニジア侵攻の結果、アフマド・ベイは名目のみの君主となり、事実上の統治はフランス人の総監が行い、さらに政府および地方自治の要職もフランス人が占めていました。さながら、戦後の日本を見ているようですね。

植民地化後、フランス人農園主によって小麦やオリーブのプランテーションが開発され、イタリア人農民と競う形でフランス人農民が流入し、多くの土地がフランス人農民の手に渡ってしまいます。1880年にフランス資本によってリン鉱石の採掘が開始され、リンはチュニジアの主要輸出品となりました。

1907年にはチュニジア独立を目的とする結社、「青年チュニジア党」が創設され、1914年に第一次世界大戦が勃発すると、チュニジアからも若年男性が労働力や兵士として徴用されました。戦後、青年チュニジア党はチュニジア人の市民権の承認、チュニジア人の政治参加、立憲君主制の憲法を制定することを目標に活動を始め、1920年にチュニスで「ドゥストゥール党(立憲党)」に発展し、ドゥストール党とフランス政府との交渉の結果、1921年3月にチュニジアの戒厳令が解除されました。

ハビブ・ブルギバとチュニジア国旗

この時、ハビブ・ブルギバの指導する「新ドゥストゥール党」はチュニジアの完全独立を要求しましたが、ブルギバは同年9月に逮捕されてしまいます。1939年に第二次世界大戦が勃発し、1940年にナチス・ドイツの侵攻によって第三共和政が崩壊すると、フランス本土ではヴィシー政権が誕生します。当初チュニジアはヴィシー政権の指導下に入りましたが、1942年11月に北アフリカ戦線のドイツ軍とイタリア軍がエル・アラメインの戦いでイギリス軍に敗れると、独伊両軍は同年中にチュニジアにまで敗走し、チュニジアは両陣営の戦場となりました。

獄中のブルギバはドイツ軍により釈放され、枢軸国への協力を要求されたがブルギバはこれを拒否。一方、チュニジアを統治していたモンセフ・ベイはヴィシー政権との関係のためにドイツ軍の要求を受け入れざるを得ず、このために連合軍によってチュニジアが自由フランス領になると、自由フランス政府はモンセフ・ベイを対独協力の罪で退位させました。これ以降、チュニジア独立運動の指導者はベイからブルギバと新ドゥストゥール党に移行していきました。

1945年にブルギバは亡命しましたが、新ドゥストゥール党はチュニジア労働総同盟と結びついて独立運動の主導権を確立し、フェッラーグと呼ばれるゲリラ組織を指導してフランス政府に対抗しました。1954年に第一次インドシナ戦争でフランスが敗北すると、フランスのピエール・マンデス=フランス首相はチュニジアに内政上の自治を認める協定を決議しました。

この決議により帰国したブルギバは新ドゥストゥール党内で反ブルギバ派の代表だったサラー・ベンユースフを解任し、党をまとめ再起しました。フランス政府は王制を維持することを条件にモロッコの独立とチュニジアの独立を認めたために、1956年3月20日にムハンマド8世アル・アミーン国王を擁立してチュニジア王国は独立を果たしました。

独立後のチュニジア

独立後、王国の初代首相にはブルギバが選ばれ、翌1957年には共和制宣言を行い、大統領制が採用したチュニジア共和国が成立しました。1959年には憲法を制定して社会主義政策を採用しました。

チュニジアは独自のドゥストール社会主義を採用し、アラブ世界との関係においては1958年にアラブ連盟に加盟しています。チュニジアは1967年の第三次中東戦争と1973年の第四次中東戦争ではアラブ側で派兵し、1982年のレバノン内戦により、パレスチナ解放機構(PLO)がレバノンを追われると、PLOの本部がチュニスに移動しました。1963年には、アフリカ統一機構(OAU)の原加盟国の一国となりました。

内政面では社会主義思想とブルギバによる社会主義に影響を受けたイスラームの教義の独自解釈によって、重婚の禁止、離婚法の制定、ラマダーン(断食)の最中の労働の合法化など世俗的な改革が進められました。1962年から三カ年計画が実施され、フランスとの激しい対立政策により、フランスからの援助が得られなくなったためにアメリカ合衆国や東ヨーロッパ諸国などの援助により、インフラストラクチュアや教育の拡充が進められました。1969年にブルギバは体力の衰えから首相職を設置し、1970年に自由主義者のヘディ・ヌイラが首相に就任すると、チュニジアの経済政策は自由主義に路線変更していきました。

ヘディ・ヌイラの政策も当初は石油輸出や観光業の振興によって経済が安定していましたが、1978年の「暗い木曜日事件」と、1980年のリビアで訓練されたチュニジア人武装組織がガフサを襲撃したガフサ事件によってヌイラは失脚し、後を継いだムザーリー首相も数々の失態からブルギバに解任されてしまいます。

ベン・アリ

後任のスファル首相が1987年に解任された後、同年10月にブルギバはベン・アリを首相に任命しましたが、高まる政治不安への国民の不満を背景に行われた同年11月の無血クーデターによってブルギバはベン・アリに解任されてしまいました。当時84歳だったブルギバは終身大統領を辞職し、ベン・アリが大統領に就任しました。

1991年の湾岸戦争ではイラクのサダム・フセイン政権を支持し、アラブ人の連帯を唱え、1993年には初めて野党の出馬が許された選挙が実施されました。1990年代には隣国アルジェリアでイスラム原理主義組織によるテロが繰り広げられ、内戦に発展したため、原理主義組織は厳しく弾圧されました。

私たちが無知のうちにイスラム圏を怖いと感じるのは、きっとこの辺りの出来事のせいかもしれません。

ジャスミン革命〜現在

2010年末に起こったジャスミン革命によってベン・アリ政権は崩壊し、23年にも及ぶ独裁体制に終止符が打たれました。

民主主義国家の一員である日本人からすると、テロや暴動という過激な民衆の反発に恐怖を感じてしまいますが、自由を求めて活動するという人々の姿を鑑みれば至極当たり前のような動きとも思えますね!ですが、この革命の発端となった若者の焼身自殺や諸々の過激な暴動にはちょっと悲しくなってしまいます。(私自身がかなり平和ボケしているせいもありそうです)

ちなみに、ジャスミン革命の直後は情勢と経済が不安定だったこともあり、荒ぶる国民たちが各地で大暴れしていたそうです。

現在では、イスラム諸国のなかでは比較的穏健なソフトイスラムに属する国であり、中東と西洋のパイプ役を果たしているだけでなく、観光地としても発達し、アフリカの国の中では比較的良好な経済状態を保っています。この革命が起こったおかげで、チュニジア国民は悪政から解放され自由を手にしました。

最後に

最後までお付き合いいただきありがとうございます。これからも様々な角度からチュニジアの歴史について書いていこうと思っていますので、楽しみにしていてくださいね!リクエストがございましたら、お問い合わせページよりご連絡ください。

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