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【世界史】教養として知っておきたい『中東問題』④:エジプトとイスラエルの和平成立

身近ではないけれど知っておきたい世界史。引き続き時系列に沿って中東問題を解説していきたいと思います。残すところ数回となってきましたが、前回までのお話をお忘れになっている方は、前回の記事で復習しておいてくださいね!

最初から読みたい方はこちら

【世界史】教養として知っておきたい『中東問題』①:中東問題のはじまりと付随する民族問題

前回までのお話はこちら

【世界史】教養として知っておきたい『中東問題』③:PLOの結成と第三次中東戦争
この記事を読んで分かること
・エジプトとイスラエルの和平成立までの流れ
・PLOがテロ行為を始めるようになった経緯

エジプトとイスラエルの和平成立

パレスチナ問題は、4度にわたる中東戦争を経て、1979年にエジプトのサダト大統領がイスラエルを国として承認したことで和平が成立しました。

これまではパレスチナ対エジプトの対立を中東問題としていましたが、これ以降はPLOを筆頭としたパレスチナのゲリラ組織とイスラエルとの対立軸へと変化していきます。「戦争という形態は取らないが実質的には戦争である」という状態でした。

アラブ側、イスラエル側それぞれが相手の存在を認めて共存しようと動き出しましたが、双方に相手を徹底的に排除するまで闘う原理原則を主張する勢力が現れ、折角成立した和平の機会は壊されてしまったのでした。

この頃から、全面的な戦争は起こっていないものの、中東平和への道のりはより困難になり、今も続く根強い確執の始まりになったと言われています。

PLO対パレスチナ

エジプトとイスラエルの和平は、パレスチナでの当事者であるPLOを除外して行われていたため、PLOのアラファト議長は激しく反発していました。

当時拠点をヨルダンからレバノンに移していたPLOは、レバノンからイスラエルに対するテロ攻撃を頻繁に仕掛けるようになります。

イスラエルによるレバノンへの侵攻

一方PLOが拠点を置くレバノンでは、エジプトとの和平によって軍備配置の自由度が増したイスラエルが、テロ攻撃を続けるPLOに対抗すべく、レバノン侵攻に踏み切ります(これを第五次中東戦争と呼ぶこともあります)。PLOに対して徹底的に攻撃を仕掛けたイスラエルはPLOを追い詰め、最終的にPLOはチュニジアへと拠点を移動しました。

民衆が自ら立ち上がったインティファーダ(民衆蜂起)

パレスチナ側は徐々に追いやられ、運動も手詰まりになっていましたが、1987年頃にガザ地区のパレスチナ人の民衆たちが立ち上がりインティファーダ(民衆蜂起)を始めます。

それまでの軍隊同士の闘いではハイテク武装したイスラエル軍が圧倒的に有利でしたが、女性や子供までもが武器を持たず立ち上がるという斬新なスタイルに想像以上に手を焼き、中東和平を望む国際世論を無視できない状況に陥ったと言われています。

PLO・アラファト議長の方向転換

そんな中、1988年、PLOはパレスチナ国家の樹立を宣言するとともに、アラファト議長が国連総会でイスラエルの存在を認める演説をし、テロ活動を停止し和平交渉へと踏み出す方向転換を行いました。

そしてアラファト議長は、同年にイスラエル国家の存在を承認し、パレスチナ地でパレスチナとイスラエルの共存を目指す「二国家共存構想」を提唱しました。

二国家共存構想の具体的な内容
・パレスチナ全体の78%をイスラエルに譲り、残りの22%に相当するヨルダン川西岸とガザ地区に限定した小さな国家を建国する。
・パレスチナ問題を難民問題として解決する規定を設けた国際連合の第242号決議を受諾する。
・PLOの憲法である「パレスチナ民族憲章」では非合法とされていた、国連パレスチナ分割決議第181号を受諾する。
・PLOは、将来的に西岸とガザが解放された場合、パレスチナ人を唯一統治民族として認める。

この構想は、これまで敵対してきたイスラエルと妥協を図ることを目的として提示したPLOからの平和的解決案であり、この構想に基づいてアラファト議長は暫定自治から最終的に東エルサレムを首都としたパレスチナ国家の樹立を目標としていました。

こうして、中東和平の焦点は、この提案をイスラエルが受け入れ、西岸・ガザから撤退するかどうかにかかってくることとなります。

おわりに

世界史は、それぞれの国の様々な背景と思惑がチラつきながら進んでいくので、登場する(関与する)国が増えれば増えるほど事情が複雑になっていきがちですよね。自分の興味のある、または関わりのある国と関連する時代背景から紐解いていくのも、世界史を身近に感じることができるのでオススメです!

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