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【世界史】教養として知っておきたい『中東問題』②:スエズ運河を巡る争いと第二次中東戦争

前回は、中東問題のはじまりやそれに付随する民族問題などを解説しました。今回はその続きとなる第二次中東戦争までを解説していきたいと思います。

今なお続く中東問題。アジア圏に住む私たちも100%無関係なわけではありません。歴史の流れに沿って記載していますので、初めて今記事を読むという方は、ぜひ①から読んでみてくださいね!

前回までのお話はこちら 

【世界史】教養として知っておきたい『中東問題』①:中東問題のはじまりと付随する民族問題
この記事を読んで分かること
・スエズ運河の完成とそれを巡る争い
・第二次中東戦争が起きるまでの流れ

イギリスに横取りされたスエズ運河

エジプトは、文化や自国の特産品などを広めるための販路を獲得すべく、アジアと地中海を結ぶスエズ運河を作ることにしました。そして、フランスとエジプトの共同作業により1869年に無事に完成させました。

しかし、エジプトは無理をしてこのスエズ運河着工に加わっていたため、スエズ運河が出来上がった頃には財政難に陥ってしまいます。

当時、エジプトの財政難を助ける国も存在しなかったため、エジプトはイギリスにスエズ運河の保有株を全て売り渡してしまい、これによりイギリスはスエズ運河の筆頭株主となりました。

フランスに相談もせず勝手にイギリスに全株を売り渡したことで、力を合わせて作り上げたフランスとエジプトとの産物がイギリスに横取りされる形になってしまいました。

その後も、イギリスはエジプトでの反乱を機にエジプトへの軍事介入を続け、ついにはエジプトを国有化し、1888年には「スエズ運河に関する条約」を結ばせてスエズ川をイギリス管轄下の中立地帯とすることで、スエズ運河の管理権までも手に入れてしまいます。

このイギリスの横取り作戦が、のちの第二次中東戦争の発端となります。

スエズ運河の国有化と第二次中東戦争の勃発

イギリスによる保護国としての支配を終わらせたいエジプトは、エジプト革命を起こし成功させます。このエジプト革命の成功により、国王が支配する王制から議会による共和制へと移行していきました。

エジプト政府は、エジプト革命より前から「アスワン・ハイ・ダム」というダムを建設したかったのですが、当初支援してもらう予定だったイギリスの後ろ楯がなくなり頓挫してしまいます。エジプトでは、この頃には湖や川から水を引く灌漑(かんがい)が発達し、水に困ることなく農業ができるようになっていたため、治水のためにダム建設をどうしても推し進めたかったのです。

エジプトはその当時、軍事的な援助をアメリカに依頼していましたが、イスラエルへの配慮から断られてしまったため、アメリカと敵対している反対陣営のチェコスロバキアから新式の武器を購入していました。そのため、アメリカと敵対する国から武器を購入した報復としてダム建設資金の融資を拒否されてしまいます。

このような状況下で、1956年にエジプト大統領に就任したガーマル・アブドゥル=ナセルは、7月26日にスエズ運河国有化すると宣言しました。

これに対して、イギリスはスエズ運河の国際管理を回復するため何度も交渉を繰り返しましたが、エジプトがそれを拒否し続けたため、イギリス・フランス・イスラエルは結託してエジプトに侵攻することにします。

これが第二次中東戦争の始まりです。結果的にエジプト側が勝利しますが、これ以降エジプトとイスラエルは常に対立し続け、ダムの建設援助を申し出てきたかつてのソビエト連邦と親しくする様になります。

MEMO
第二次世界大戦以降、かつての様な侵略行為は国際世論に避難される恐れがあったため、イギリス・フランスが理由なく軍事行動に出ることができませんでした。そのため、第一次中東戦争でエジプトと敵対し、エジプトがイスラエルのインド洋への出口であるチラン海峡を封鎖していたことを理由にイスラエルと手を組み、表向きはイスラエル対エジプトの戦いとして戦争を始めました。

最終的にはエジプトが大敗したのですが、なんとここでアメリカとソ連の二大国がイギリス・フランス・イスラエルを非難し、国連緊急総会が開催され、第二次中東戦争は一時停戦することとなります。

おまけ:南スーダンにも影響を与えた中東戦争

日本の自衛隊派遣でも取りだたされている南スーダン問題。実は、ことの発端はこれまで説明してきた中東戦争にあります。

かつては多くの民族が水源に沿って定住生活を営んでいたスーダンですが、1819年にエジプトの支配下に置かれてからは状況が一変します。

エジプトの支配により重税を課され不満を持ったスーダンは、ムハンマド・アフマドという支持者の主導でマフディーの反乱を起こします。この反乱は成功し、エジプトと共に対抗したイギリスは表面的に敗北してしまいますが、実際には、イギリスがスーダンを独立させておきながら、エジプトに領有権だけは主張させるという、いつでも必要な時に戦争を起こすきっかけを作れる様にイギリスが仕掛けた巧みなトリックでもあったのです。(このイギリスの外交支配テクニックは伝統的なもので、エジプトだけでなく様々な国との外交で使われています)

その後もイギリスは幾度となくスーダンを征服しようと目論み、様々な作戦を考えます。その際、民族の対立感情を利用して支配しようと考えていたため、次の様な政策が行われました。

・マラリア予防を口実に、南北の行き来を制限

・もともとあったアラブ系の遊牧民族と非アラブ系の定住民族の構造を利用し、南北対立を煽る分断統治を実施

スーダンの内戦は非常に根深く今もなお不安定な状態が続いていますが、特に今までの中東戦争で根付いたアラブ主義を利用したダフタール紛争は結果として死者約30万人、難民・避難民約200万人を生み出した世界最大の人道危機へと発展しました。

今回は端折りながら説明していますが、スーダンは地理的に中東とサブサハラ・アフリカを結ぶ地域に位置している上、9ヶ国と隣接してるので、世界中がスーダンの情勢を主要な関心ごととして捉え、国連・国際機関などが大規模な人道支援と復興支援活動を続けています。

おわりに

今回は第二次中東戦争までについて解説しました。日本にいれば知らなくても問題ないかもしれませんが、旅行やお仕事で日本人以外の人々に触れ合うときに、ぞれぞれの国の背景を知っておくと、その国の特性を褒めて喜ばせたり、地雷を踏まずに済んだりとメリットがたくさんあると思います。

ぜひちょっとでもいいので、今まで目を向けて来なかった世界情勢があれば、アンテナを張ってみてくださいね!

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