はじめにお読みください

【世界史】教養として知っておきたい『中東問題』①:中東問題のはじまりと付随する民族問題

チュニジア人と結婚したことにより、より一層世界情勢に目を向けるようになったのですが、アフリカを取り囲む情勢や歴史は世界史を駆け足ですっ飛ばしてきた私にはすんなり理解できませんでした。

そこで私が実際のところ「中東問題って何なの?」と調べて分かったことを出来るだけ分かりやすく解説していこうと思います。「日本人って何も知らない」って言われないためにも、少しだけお付き合いください。どなたかの知りたい欲を満たす助けになれば嬉しいです。

これは私が溢れ出る知的好奇心から、独自で調べてまとめた情報です。調べたくて調べただけなので、中立な立場で起こった事象を淡々と記載していることをご了承ください。
この記事を読んで分かること
・「中東問題」という言葉が指す意味
・「クルド人問題」のはじまり
・「パレスチナ問題」のはじまり

中東問題に関する誤解

私は漠然としたイメージでこの「中東問題」を捉えていたこともあり、最初はイスラム教とキリスト教の宗教戦争なんだと勝手に思っていました。

しかし実際は、「中東問題」は中東のあらゆる混乱の根本を生み出している「パレスチナ問題」のことを指しています。アラブ諸国の発展途上で、当時のアラブ側が大国の外交政策に翻弄され、アラブ人として国を築くことが出来なかったために、「パレスチナ問題」をアラブ全体の問題として捉え、中東の様々な他の問題を引き起こす元凶となっていると考えられています。

結局のところ、宗教ではなく民族間の問題を主に指しています。

「中東」はなぜ「中東」って言うの?
「中東」とは、イギリスがヨーロッパ列強との植民地獲得競争の中で用いた言葉で、イギリスにとって「東(East)」は植民地であるインドを指していました。そこからインドを中心としてインドより東を「極東(Far East)」、バルカン半島などを「近東(Near East)」と呼んでいました。そして、「東」であるインドと「近東」の間に位置する中間の地域を指す言葉として「中東(Middle East)」という言葉を用いられていたことから、今でも「中東」と呼ばれています。

「中東問題」とは何かということが分かったところで、次からはアラブ諸国が辿ってきた歴史とその時に生まれた民族について説明していきます。

もともとは寛容だった巨大国家

中東問題の舞台となるイラクから北アフリカまでの地域は、もともとはヨーロッパ列強に侵略される19世紀ごろまで、オスマン帝国の支配下にありました。

オスマン帝国はイスラム教を国教としながらも宗教に寛容で、キリスト教やユダヤ教なども許されていました。つまり、宗教や民族が原因で起こる争いがない安定した状態でした。

諸悪の根源はイギリスの三枚舌外交

これは世界的に有名なことですが、イギリスが第一次世界大戦中にとった三枚舌外交と呼ばれる不誠実な外交政策が、のちに中東を混沌とさせる結果となりました。

イギリスが行った三枚舌外交とは、同時に実現することが出来ないと分かっていながらも、サイクス・ピコ協定バルフォア宣言マクマホン協定の3つの矛盾した約束をした黒歴史のことを指します。

その矛盾点をざっくりと説明すると、イギリスはアラブ人に「中東の統一を全面的に支援するよ〜」と約束しておきながらも、水面下ではフランス・ロシアと中東を3分割しようと秘密協定を結んでいたというものです。

結局、イギリスの策略により中東は恣意的に分断されてしまいました。

国を持たない世界最大の民族集団が誕生

サイクス・ピコ協定でフランスとイギリスによって引かれた恣意的な国境により、クルド人がトルコイラクイランシリアアルメニアなどに分断されてしまいます。こうして、世界最大の国を持たない3000万人の民族集団が生み出されました。

さらに、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の共通の聖地であるエルサレムも分割し、結果的にユダヤ教に占有させることを認めてしまう形になってしまいました。行き場をなくした巨大な民族が自分の国が欲しいと動き始める、これが俗に言う「クルド人問題」です。

駅前で青いトルコ国旗を持って街頭演説している人々を見たことがあるかと思いますが、この人たちが「クルド人が自分たちの国を作りたい」という想いを後援する人たちです。

突然の「イスラエル建国宣言」

第二次世界大戦後、クルド人による民族問題を処理できなくなったイギリスは国連にこの問題を丸投げし、国連は1947年にパレスチナにアラブとユダヤの2つの国家を作るという分割案を採択しました。

この頃、パレスチナではヨーロッパで差別や迫害を受けていたユダヤ人の間で民族国家建設を目指す「シオニズム」という思想が生まれ、19世紀末、ロシアでのユダヤ人迫害を受け、ユダヤ人のパレスチナ移住が盛んになり、ユダヤ系資本によるパレスチナの土地の買い占めが始まったという背景があります。

しかしその内容は、パレスチナに古くから住むアラブ系住民に全体の43%、新しく移住してきた少数のユダヤ系住民に全体の57%の土地を与えるというものでした。

アラブ系住民とアラブ諸国はアラブ系住民よりもユダヤ系住民に多くの土地を与え、しかもアラブ系住民に与えられた土地は耕作不能な土地ばかりだったということから、この決定に猛反発します。当時パレスチナを統治していたイギリスはこの激化する対立になすすべなく、一方的に撤退してしまいます。

そして、イギリスの統治が終わった直後に初代首相に就任したベン・グリオンによって、突然イスラエル建国宣言が行われました。

パレスチナ難民の発生

突然のイスラエル建国宣言の翌日、周辺のアラブ諸国はこれを認めず武力攻撃を開始し、第一次中東戦争が勃発します。

当初、周囲はアラブ諸国に囲まれ、イスラエルの小さな軍隊では勝ち目がないと思われていたものの、迫害されたユダヤ人に同情した(もちろんそれ以外にも政治的思惑があったのですが)アメリカ・イギリス・フランスが支援したため、結果的にイスラエルが勝利し、イスラエルが建国されました。

この戦争によってユダヤ人による虐殺や迫害を恐れたアラブ人は難民となって近隣のアラブ諸国へと避難しました。この難民とその子孫が「パレスチナ人」と呼ばれる人々です。そしてこのパレスチナ人を巡る問題が「パレスチナ問題」と総称されています。

おわりに

中東問題の歴史的経緯は、これ以降から現在までずっと続いているのですが、今回は触りの部分だけご紹介しました。アラブ人が持つ嫌悪感や思考回路を理解するには、彼らが味わってきた歴史的な出来事をざっくりでも良いから理解する必要があります。

私も実際に調べていくうちに、もっと世界史を本気で勉強しておけばよかったなと実感しました。これからも時々こんな風に、中東やアラブ諸国の今までの歴史について触れていきたいと思います。世界中で今起こっている出来事を理解するためには、この「中東問題」を避けては通れません。世界中で起こっているニュースを見る前に、今一度これまで行われて来た世界の歴史を(俯瞰で)振り返ってみてくださいね!

2 COMMENTS

ヒデ

分かりやすくて、ためになります。
ここまでまとめるのは、色々情報を読み込んだのでしょうね。今後が益々楽しみです。

返信する
MAYU

コメントありがとうございます。様々な情報を読み込む中で、いかにこれまで外に目を向けて来なかったかということに改めて気づかされました。知れば知るほどドツボにハマる歴史・・・楽しいですね!これからもコツコツと書き続けていきますので、ぜひ覗きに来てください!

返信する

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です